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自分と他人を比べても意味がない——そんなことはわかっているのに、ついついやってしまうのが人間というもの。他人と比べて焦ったり自信を無くしたり、「人との比較」は多くの人にとって悩みの種になっています。
どうすれば、人と比べることなく自分らしい生き方ができるのでしょうか。
今回はその答えを探るために、仏教の僧侶であり、ベストセラー『反応しない練習―あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」 』(KADOKAWA, 2015)の著者でもある草薙龍瞬さんにお話を聞きました。宗教というと精神論のようなイメージを持つ方もいるかもしれませんが、草薙さんのお話を聞くと「仏教はとても合理的で実践的」ということがわかります。
「人との比較」というテーマから始まったインタビューは、後半に向かうにつれて、焦りや嫉妬を含む「悩みごと」全般への対処の仕方、日々の暮らしや仕事との向き合い方にまで発展しました。人生の悩みを解消してくれる、超合理的な仏教の教えをお届けします。
※今回は、仏教の教えをわかりやすく噛み砕いてお届けするため、なるべく草薙さんの言葉そのままを残したロングインタビューとなっています。まとまった時間がとれるタイミングで、ゆっくりご自身のペースでお読みいただけますと幸いです。
- 草薙 龍瞬さん
奈良県出身。中学中退後、16歳で家出・上京。大検(高認)を経て東大法学部卒業。政策シンクタンク勤務ほかさまざまな仕事をしながら「生き方」を探しつづけ、三十代半ばで得度出家。ミャンマー国立仏教大学、タイの僧院に留学。現在、インド・マハラシュトラ州で現地仏教徒とともに社会改善NGOと幼稚園を運営するほか、日本では寺・宗派に属さず、現実に役立つ生き方としての仏教を、著作や講演を通じて伝える活動をしている。
承認欲を満たすために学習した“判断”から、人との比較は生まれる
——まず「そもそも、なぜ他人と比べてしまうのか」ということから教えていただけますか?
一言でいえば、「承認欲」を満たそうとしているからです。承認欲とは、自分の価値を認められたいという心の動き。人間なら、誰もが小さいころから持っている願いです。
小さな子どもは、何かをするときはいつも親の顔色を伺いますよね。これは、親が喜んでくれるかどうか、褒めてくれるかどうかで、自分の良し悪しをはかっているから。承認欲にもとづく反応です。
成長すると自意識が発達して、「もっと自分の価値を認めてもらうには、どうしたらいいか」と考え始めます。そこで学習するのが「判断」です。たとえば「テストの点数が良くて褒められた」経験をすると、「勉強ができる=価値を認めてもらえる」という判断を学びます。
そして、その判断を、自分や周りに向けるようになる。結果として生まれるのが、他人との比較です。優越感、劣等感、嫉妬や焦りなど、さまざまな感情も生み出します。すべては、承認欲を満たすために学習した判断からきています。
——人と比較して競争するから頑張れるという人もいますが、どのように考えますか?
人と比べて頑張るというのは、長い目で見ればお勧めできません。というのも、比較して価値を測ることは、頭の中の判断にすぎないから。客観的には存在しない。日頃あれこれと思い浮かべている雑念と変わらないのです。
その程度のあいまいなものに飛びついてしまうと、本当に価値あること、つまり仕事や学びに落ち着いて取り組めなくなります。代わりに嫉妬や焦り、負い目といったネガティブな感情が増えてしまうのではないでしょうか。
人と比べることは、自分にプラスになりません。役に立たない。あとでお話しますが、頑張って成果を上げる方法は、他にあります。
——比較することは、デメリットが多いということですね。では、人に認められたいという承認欲はどうでしょうか。活かすことは可能ですか?
比較そのものは結果につながりませんが、承認欲そのものは「活かし方」次第かと思います。
欲求は、自然に湧いてくるエネルギーです。大事なことは、エネルギーを何に、どのように使うかです。認められるために頑張って、欲しいものを手に入れたり、充実感を味わったりすることは、人生を豊かにしてくれます。仕事を頑張って誰かが喜んでくれるなら、承認欲は無駄になりません。
「ほどほどに、上手に活かす」というのが、承認欲との正しい向き合い方かと思います。これも、のちほど紹介する「活かし方」につながっていきます。
心の中の妄想を手放せば、比較も悩みも消えていく
——比較することは役に立たないが、承認欲は活かせるということですね。今回のテーマがひとつ整理できた気がします。つい比較してしまう心理については、どう対処すればいいのでしょうか?
先ほど話したように、比較は承認欲を満たすために学習した「判断」だということが、カギになります。人は判断しすぎです。「勉強ができる=価値がある」という価値観だけでなく、学歴信仰、ルッキズム、人気を数値化するSNSなど、過剰な判断が世の中に蔓延しています。
大切なのは、こうした判断が人間が勝手につくり出した「妄想」であると自覚することです。妄想は、頭に浮かぶ言葉や映像にすぎず、実在しません。しかもすぐ忘れてしまいます。たとえば、今日のランチは思い出せるでしょうが、一週間も経てば忘れてしまいますよね。
妄想は、その程度のものです。実にいい加減なもの。何に価値があるかないかという判断も、比較も、競争意識や劣等感も、本当は同じです。
他者との比較に限らず、人生のあらゆる悩みは「妄想」が原因だ、とブッダは言います。だから妄想を止めること。妄想から自由になることが、あらゆる悩みを解決するための第一歩になります。要は、忘れてしまえばいいのです。
——つい人と比較してしまうことは、クセのようなものです。忘れることなんてできるのでしょうか?
忘れる、捨てる、手放す、卒業する、どれも同じ意味ですが、これは練習によってできるようになります。ひとつの練習法は、自分の心の動きを観察することです。たとえば、自分より評価されている誰かを見て嫉妬したとします。このとき、「これは嫉妬だな、認められたいんだな、そうか承認欲で反応しているんだ」と、自分の思いを観察するのです。
心は、放っておくと、すぐ妄想してしまいます。比べてしまうし、焦りや嫉妬や劣等感というムダな判断も増やしてしまいます。こうした心の動きを客観的に見るようにするのです。心を見ること。喫茶店で一人過ごす時間や、道を歩きながらすることも可能です。
大事なことは、心の動きを「判断しない」こと。「こんなことを考える自分はダメだ、未熟だ、恥ずかしい」と判断しないで、こう思った、こんな反応をしたという事実を、いさぎよく認めるようにします。すると次第に「妄想ではなく、理解するモード」に心が切り替わっていきます。結果的に、妄想しない自分に近づいていけるのです。
言葉や体の感覚を頼りに、妄想と事実を区別する
——自分の心を観察する練習について、もう少し教えてください。
『反応しない練習』で紹介した例をいくつか挙げると、ひとつは「妄想している状態」と「妄想していない状態」の違いを自覚することです。
たとえば目を閉じて、まぶたの裏の暗がりを見つめます。最初は何も思い浮かばない「妄想ナシ」の状態ですが、少し時間が経つと「あの仕事や勉強が終わっていないな」とか「昨日言われたあの言葉が気になるな」とか、妄想が始まる。「これが妄想か」と気づいたら、パッチリ目を開いてください。外の光を目に通すのです。「さっき見たものは妄想、今見ているのは事実。全然違うな」と実感できたら、しめたもの。今すぐ、やってみてください。
妄想と現実を区別する方法として、足の裏を意識して、百歩歩く。シャワーを浴びるときに、目を閉じて、肌を打つ飛沫を見つめる、といった方法もあります。妄想に打ち勝つには、体の感覚に意識を向けることがコツなのです。
——たしかに、筋トレでもサウナでも、体に意識が向いているときは変な妄想から解放されますよね。
そうです。体の感覚は、心の元気を取り戻す最良の薬なんです。もうひとつ、心を観察する 練習が、心の動きを言語化することです。「イライラしている。少し反応しているぞ」とか、「ストレスが溜まっている。あまりいい状態じゃないな」と言葉で確認するのです。仏教ではラベリングと呼んでいます。
紙に気持ちを書き出すことも、役に立ちます。時間をつくって、自分の思いを振り返るのです。コツは、客観的な出来事と、そのときの自分の反応を分けて書くこと。「Aさんにこんなことを言われた」「そのとき私はこう反応した」というように。
理想は、「自分の反応を書き換える別の考え方」を、最後に付け足すこと。「納得できる考え方」を工夫するのです。「言われたところで自分に影響があるわけじゃないし。私はなすべきことをやっている」と書いて締めるという具合です。
多くの人は、日ごろ条件反射的に反応しているだけですよね。その反応を自覚して、言語化して、新たな思考に書き換えることで、気持ちを整理していくのです。スッキリしますよ。
反応しない「ニュートラル」な状態こそ最速
——以前、周りと自分を比較しないために、自分以外に関心を持たないようにしていたことがあります。無関心でいることは、妄想を止めるうえで役に立ちますか?
いえ、意外に思われるかもしれませんが、無関心というのは、すでに妄想しているし、反応している状態です。他人をすごく気にしているのに、あえて考えないようにふるまっているのです。
これは、抑圧と同じです。ストレスが溜まるうえに、無理して目を背けることで、心の「乖離」状態におちいります。何も楽しくない、生きている実感が持てない状態になってしまうのです。
仏教が勧めるのは、無関心ではなく、「ニュートラル」です。ニュートラルとは、感情の波をムダに増やさないこと。反応せずに、物事を冷静に理解して、自分がなすべきことに集中する。かぎりなく負荷が少ない、ノーストレスの精神状態です。
——「ニュートラル」について、もう少し詳しく教えてください。
仏教におけるニュートラルとは、自分の物事に集中するための前提、いわば心の土台です。
日頃の心は、反応しまくりの妄想だらけ。まるで暴風雨に襲われた小舟のようです。こんな状態で、仕事や人間関係や、外から飛び込んでくる腹立たしい話題に向き合っているとしたら、疲れるのも当然。
では逆に、妄想が止まり、反応が静まったら、心はどうなると思いますか。暴風雨がやんで、波が立たなくなった。そうなったら、エンジンひとつで一直線に進めます。最短距離で目的地にたどり着けます。
ニュートラルとは、そうした心の状態です。無駄な反応がないので、自分にとって価値あること、必要なことを、淡々と確実に進めていけます。ストレスは限りなくゼロです。
妄想を止めて、無駄な反応をしなくなれば、自然にニュートラルに近づけます。その点でも、先ほど紹介した練習を日頃やってみてもらえたらと思います。
身勝手な妄想ではなく「体験」が未来の可能性をつくる
——ニュートラルであることは、仕事における成長や成果にも、つながりそうですね。
もちろんつながります。ストレスは減るし、集中できるし、ニュートラルは良いことづくめです。ただ、ひとつ注意したいことがあります。仕事における成長や成果は、期待するだけなら妄想かもしれないということです。
たとえば「こんな自分になりたい、成長したい」と願っても、「こんな自分」は未来の話です。承認欲がつくり出す都合のいい妄想かもしれません。
妄想が先走ると、焦りや嫉妬、現状への不満が増えます。「自分には向いていない」と、早すぎる結論を出してしまう人も出てきます。結果はあくまで現実の積み重ねの先にしかないにもかかわらず、です。
では、本当の成果や成長は、どうすれば手に入るのか。コツをひとことでいえば、「体験を恐れないこと」によってです。
——体験によって成果や成長が得られるとはどういうことですか?
大人になった私たちは、多くのことができるようになっていますよね。でも、幼い頃はできませんでした。なぜできるようになったかといえば、「とりあえずやってみた」から。体験したからです。
「体験」という言葉は、仕事だけでなく、趣味、学び、人生全般をつくるキーワードです。とりあえずやってみる、聞いてみる、試してみる、考えてみる……その結果、どうすればできるようになるかを学ぶことで、「できる」が増えていきます。
その結果が、成長であり、成果です。体験が未来の可能性をつくるのです。
——タイミーのミッションである「『はたらく』を通じて人生の可能性を広げる」と共通するものを感じます。ちなみに、仏教では「はたらく」や「仕事」はどのようなものだと考えるのでしょうか?
仕事も「体験」から始まります。やる前から仕事ができる人なんて、いませんよね。まず体験してできるようになる。さらに人の役に立つレベルに到達すれば、「仕事」になります。お金を稼げるということです。
ここから、仕事に二つの可能性が生まれます。ひとつは「適職」を見つける可能性。適職とは、苦痛を感じない仕事のことです。さらには「天職」。これは、喜びや満足を感じられるに至った仕事のことです。
体験する→できる→役立つことが仕事。そのうえ苦痛がなければ適職で、喜びを伴うようになれば天職。これが仏教的な仕事の定義です。
どんな仕事も、最初は不安だし、失敗もします。この段階を越えるには、体験を重ねることです。できることが増えるにつれて苦痛は減ります。「向いているかも」「きっと大丈夫」と思えます。適職ですね。さらに学んで、やりがいを感じたり、大きな成果を上げたりできるようになれば、満足度も上がります。もはや天職です。
こうした未来は、体験を重ねた後に見えてくるものです。逆に、体験する前に「これが自分の適職だ」とか「自分に向いていない」と判断するのは、妄想かもしれないということです。
仕事はやってみないとわからないというのが、真実です。そう考えると、タイミーのようなサービスで色々な仕事を体験することは、適職や転職を探すのにいいのかもしれませんね。私もやってみたいです(笑)。
「はたらく」が辛い人は「なぜ?」を冷静に考える
——やってみて向き不向きがわかることって多いですよね。仕事に苦痛を感じている方も少なくないと思いますが、その場合はどうしたらいいでしょうか?
苦痛の原因が何かによります。二つの原因を考えておく必要があります。
1つは「方法」を知らないこと。どうすればできるのか、まだわからない段階です。
この段階で「できる自分」を妄想すると、焦りや悩みが生まれます。ここは発想を切り替えて、「まだ方法がわかっていないんだな、どうすればできるのだろう?」と考えて、人に聞いたり勉強したりすることが、正解になります。
2つ目は「心のクセ」です。怒りやすかったり、自分に厳しすぎたり、やたらと人と比べてしまったり。たとえば上司に叱られたときに、持ち前のコンプレックスや、高いプライドで過剰反応すると、苦労が増えます。
こんなときは、「心のクセが出ているぞ」と自覚して、考え方を切り替えます。「どうすればよかったんだろう? やり方を確認しよう」と思い直すとか、「違う受け止め方をする人だっているよな。自分が尊敬するあの人なら、どう考えるだろう?」と考えてみるのです。
気をつけたいのは、苦しい原因は人によって違うのに、「この仕事は向いていない」と早合点してしまうことです。体験を重ねて方法を学べば、できるようになるかもしれない。心のクセが原因なら、自覚して、発想を切り替える練習をすることで、乗り越えていけます。
——実際には、なぜ苦しいのかわからないばかりに、ストレスでダウンしたり、仕事や人間関係が嫌いになったりする人も、少なくありません。もったいないですね。
本当にそう思います。この先、何かに悩んだときは、反応しすぎ? 心のクセ? 方法を知らないだけ? 単なる体験不足? 相性の悪い人と一緒になってしまった? と、原因が何かを考えてみてください。ちなみに親との関係や、過去の体験が尾を引いている場合も意外に多いものです。
悩みには必ず原因があります。原因を取り除けば、元気を取り戻せるというのが、仏教のメッセージです。いったい何が原因か。自分の過去や心の動きを観察し続けると、次第に見えてきます。「自分を理解する」ことが大切だということです。
インドで得た「社会や他者のために生きる」という生き方への確信
——心の動きに自覚的になることは、生きる上でも働く上でも大切なんですね。草薙さん自身も、そうした生き方を実践されてきたのですか?
とんでもありません。私も、さまよえる人生をかなり長いこと生きた一人です。学校でも大学でも、その後の仕事でも、いつも疑問や葛藤を抱えていました。生き方が見えなくなったから出家してしまったんです。
生き方が見えたのは、三十代半ばをすぎて出家して、インドに渡ってからです。「インドにいって人生が変わった」なんて、ありきたりな表現に聞こえますが、私の場合、結果的に本当にそうなったんです。
インドには、カーストにも入れない「アウトカースト」(不可触民)と呼ばれる人たちがいます。一昔前は昼間に道を歩くことも禁じられ、井戸水に手をつけることも許されなかった人たちです。その人たちの中に、戦後間もなく、仏教に改宗した人たちがいます。
そうした人々が暮らす村を訪れる機会がありました。その村の青年たちは社会意識が高く、農業や出稼ぎで稼いだお金で、村の行事や教育事業を展開していました。その日は、子供向けの教育キャンプに、私を呼んでくれたのです。
ランチの時間に、私は炊き出しのカレーを配る係を引き受けました。村の現状は聞いていましたが、自分は日本を飛び出し、お金も肩書も失くしてしまった身の上です。何もできない自己嫌悪を感じながらも、カレーを配り始めました。
そのとき、せめて自分にできることとして、出家して最初に教わった生き方、つまり「慈しみ」を念じながら配ってみようと思ったのです。慈しみとは、仏教の言葉で、相手の幸せを願うことです。
きれいごとに聞こえるかもしれませんが、自分が選んだ新しい生き方として、真面目に願ってみたのです。「君の未来が幸せでありますように」と。
すると不思議な変化が起こりました。人生で初めて「心からの安らぎ」を感じたんです。
——安らぎ、とは?
これで間違いない、これ以上の生き方はない、という確信です。自分のことは置いておいて、まずは「目の前の人の幸せを願う」こと。それが、過去のどの時点での自分より、はるかに正しい生き方をしているという手応えのようなものを感じたんです。真面目な話、これほど落ち着きを感じたのは、生まれて初めてでした。
私は16歳で上京してから、いろんな仕事をしてきています。でも、どこにいても満たされませんでした。出家してようやくわかったことは、自分が生き方を間違えていたということでした。
まずはこの命を社会の中で役に立てる、役割を果たす、そんな自分の生き方に納得する。そういう心がけでいたら、どの仕事もやめる必要なんてなかったな、と思いました。
その日見つけたのは、「自分を越える生き方」です。生きていくうえでの基準のようなもの。この基準に沿って生きていこうと決意したときから、ようやく自分の人生が回り始めた気がします。
「自分にできることをやっている」と思えれば、それだけで人生は満点
——ご自身の答えを見つけて日本に帰ってきたのですね。ご存じかと思いますが、今の日本は、SNSで人気を数値化されたり、会社では営業成績を並べられたりと、比較と競争に溢れています。こうした社会のなかで、自分らしく生きるヒントはありますか?
理解すべきは、SNSも経済も教育も社会の風潮さえも、人間の心、つまりは妄想がつくり出したものだということです。人間は、妄想を克服できたことがありません。
なぜ比較や競争をもって人の心を煽り、追い詰めるような世の中になったかといえば、そのように仕掛ける側が、妄想にどっぷり浸かっているからです。
こんなものを手に入れれば、褒めてもらえる、買ってもらえる、注目してもらえる。そうした人間の承認欲と妄想を刺激する仕掛けが、比較であり競争であり、SNS上の数値化です。「ほどほど」を、はるかに逸脱したレベルに達してしまっています。
——承認欲や妄想をうまく利用されてしまっている、と。
こうしたものに飛びついてしまうのは、自分にも承認欲と妄想があるからです。自己主張、自己顕示、比較、競争、優越感、劣等感、自分なんて価値がないという自己否定や自己疎外……全部、承認欲と妄想がつくり出した負の反応です。
本当は多くの人が、ストレスを溜めこみ、疲れているはずです。でも捨てられない。自分の心に何が起きているかを自覚していないからです。
これは、一人ひとりが越えていくべきテーマだと思います。最終的には「世の中、みんな妄想を追いかけているんだ」「自分は妄想に振り回されているんだ」という事実に気づくことが、答えになるだろうと思います。
人と比較することは、自分の側の妄想です。妄想そのものを手放すことができれば、次第に卒業できるはずです。
——自分は妄想を手放せたとしても、他の人から比較や競争を仕掛けられてしまう場合はどうしたらいいですか?
他者の妄想に反応しなければいいだけです。誰かが向けてくるマウントや、どちらが上か下かという判断は、その人がそんな妄想をしているというだけ。「へえ、これがこの人の妄想か」と理解して、「でも、あなたの妄想に反応しません。認められようとも思いません」と割り切ることが大切です。
面白いことに、自分が妄想しなくなれば、他人の妄想は気にならなくなります。反応してしまうのは、自分にも同じ妄想があるから。妄想が消えると、反応しなくなるのです。
代わりに、自分がすべきこと、できることを確認する。「自分は自分にできることをやっている、頑張っている」と思えたら、その時点で「満点」です。
自分の物事、自分の仕事をちゃんとやっていれば、足りないものはありません。今の自分に納得していると考えることが可能になります。比較する自分からの卒業です。
——最後に、日々働いたり勉学に励んだりする読者に向けてメッセージをお願いできますか。
私自身、働きながらさんざん迷って、ようやく自分の生き方や働く意味が見えてきた一人として、今いちばん伝えたいことを言葉にしてみますね。
今の時代、人は妄想に振り回されすぎ、踊らされすぎです。比較や、いちいち人の価値を値踏みする風潮も、妄想の一つです。でも妄想を取り払って、事実だけを見つめてみれば、みんな自分の体と頭を使って、それぞれの日常を精一杯生きて、働いているだけです。
自分にできることをやる。誰かの役に立つ。そうした一人ひとりの仕事がつながりあって、この大きな社会が回っている。その事実を見れば、どの仕事に価値があるとかないとか、それこそ比較や競争が、誰かが作り出した妄想でしかないことが、見えてくるのではないでしょうか。
人間は、ただ生きて、働いて、余計な苦しみを背負わないように心がけ、ひとつ役に立てるように、世の中が少しでも良くなるように、と願いながら生きていく。それだけで十分だし、それだけで尊敬される。それが本来の社会であり、仕事というものだろうと思います。
私の場合は出家するまで、その当たり前のことがわかりませんでした。でも妄想から目を覚ませば、当たり前が残るんです。
働く人が、この当たり前に目覚めること。どれだけ当たり前に戻れるか、それぞれの場所で挑戦できれば、人生の楽しみが一つ増える気がします。仕事も世の中も、本当はもっと楽しくできる。今は素直にそう思います。ともに頑張っていけたらと願っています。
草薙さんの御著書をご覧ください。
もっと深く仏教について知りたい方は(撮影:村井香)
- タイミーラボ編集部
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